「子どもの価値」:タテマエでなくホンネは?

「子ども」に価値があるなんて当たり前のこと、改めて問うまでもない、ほとんどの親はそう考えています。
しかし、この記事ではその「子どもの価値」を改めて問うてみることにします。
タテマエではなくホンネの価値です。
そうすることによって、あなたにとって「子ども」はどういう存在なのか、あなたが「子ども」に求めているものは何なのか、普段考えてもみなかったことが見えてくるかもしれません。

昨今、科学・医療技術の進歩、受胎調整技術・計画出産の普及によって、「子ども」は「産まれる」ものから「作る」ものへ、「授かるもの」から「作る」ものへと変化してきています(詳しくはコチラ「子どもの価値」(1):子どもは「授かる」ものから「作る」ものへ)。

では、現代の日本人はどのような理由で子どもを「産む」(あるいは「産まない」)選択をしているのでしょうか。

柏木恵子らは、当事者である女性の「産む理由」に焦点をあてた研究を行いました。すでに出産した3つの世代(30代、40代、60代)の女性が対象です。
この調査の結果、「産む理由」として5つの要因(因子)が質的に異なるものとして区別されました。その5要因とは、<産む理由>3要因、<産まない理由>2要因でした。

「子ども」のプラスの価値:<産む理由>3要因

5要因のうちの3要因は、<情緒的価値>、<社会的価値>、<個人的価値>です。子どもに認めるプラスの価値で、いずれも精神的な価値です。

第1の<情緒的価値>は、「家庭がにぎやかになる」、「(結婚)生活に変化が生まれる」、「夫婦の絆が強まる」などで家族・夫婦にとって「情緒的価値」があるというものです。
第2の<社会的価値>は、「結婚したら子どもをもつのは当然」、「次世代をつくるのがつとめ」、「それで一人前」など社会にとって価値があるとするものです。

第3の<個人的価値>は、「子どもを育ててみたい」、「生きがいになる」、「自分が成長する」、「妊娠・出産を経験したかった」など、もっぱら産む女性自身にとっての子どもの価値です。




体験欲”としての妊娠・出産・子育てとでも呼べる価値・欲求です。
ここには、せっかく女に生まれたのだから、体験しないのはもったいない、そんな欲求が根底にあっての子どもの選択といえます。

これは子どもそのものの価値ではない点で、他の理由とはまったく異なり、これまでにないものでした。興味深いことに、それが、若い世代では大きな理由になってきています。

“体験欲”:妊娠・出産をしたいという欲求

内田春菊「私たちは繁殖している」という15巻の漫画本が、多くの若い読者を得ました。
この本は著者自身の体験にもとづいたもののようですが、そこには妊娠し出産にいたる間に本人の心身や周囲に起こるさまざまな事柄がリアルに描写されています。著書は「私は子どもを産みたかったということだけが動機で産んだ・・」とあとがきに記し、自分の妊娠・出産への強い関心を披露しています。
この本は一時期ベストセラーになって若い世代を中心に話題になりました。このことは、若い人々の間に妊娠・出産体験に対する関心がいかに強いかを物語っています。

最近、結婚はしたくないけれども妊娠・出産の経験はしたいとか、夫はいらないけど子どもは欲しいなどと冗談まぎれに言う若い女性が少なくありません。
ここにも女性ならではの身体体験への強い好奇心をうかがうことができます。

「子ども」のマイナスの価値「つくる」時代ならではの理由

残り2要因は、<条件依存>と<子育て支援>です。いずれも「子どもの価値」そのものではなく、むしろ子どもをもつか否かの決断を左右する事柄・条件です。

第4は、「経済的ゆとりができた」「自分の生活に区切りがついた」「夫婦関係が安定した」「自分の仕事が軌道にのった」などの<条件依存>です。子どもをもつことで妨げられる可能性がある事柄・条件ばかりです。

第5は、「よい保育園があった」「子育てを手伝ってくれる人がいたから」<子育て支援>です。子どもが生まれた後の育児条件についての条件です。

これら2要因は、子どもをもつことが、条件によってはマイナスの価値となることを予想したものです。

自分(たち)の生活が被るさまざまな影響を、事前にあらかじめ十分に検討する、それによって子どもを産むか否かを決断する、「つくる」時代ならではの態度といえるでしょう。

これは、ほかでもない女性が子どもや子育て以外にも価値あるものをもっているからです。このように子どもの価値は絶対的なものではなくなり、他の価値とならぶ相対的なものになってきたといえるでしょう。

あなたの場合はいかがでしょうか? あるいはいかがでしたか? 「子どもを産むこと」にどのような意味や価値を感じていらっしゃるのでしょうか(いらっしゃったでしょうか)?

30年ほど前に妊娠・出産をした筆者の場合は、子どもを産む価値として、<社会的価値>は皆無でした。反対に、今の若い世代で増えている“体験欲”にもとづく<個人的価値>は強くは意識しなかったものの、今思い出せばそんな思いもあったような気がします。
ただ、産むことを「選択」したというより、結婚した以上子どもを産むのは自然・当然のことも感じていました。そして、漠然と子どもが生まれたら可愛いだろうなぁ、家庭が明るくなるだろうなぁ、楽しいだろうぁと<情緒的価値>を期待していたように思います。

いずれにしても、ここ30年ほどの間に、子どもを産むことの意味が変化しました。ざっくり言うと【自然・当然・社会のため】から【条件次第・自分のため】へとです

では、こうした変化は、子ども本人にとってはどうなのでしょうか?
親たちの「自分のため」が度を超した場合の問題・弊害はいくつか指摘されています。

子どもの<個人的価値>:度を超すと「持ち物」化の弊害

子どもが親の「つくる」ものとなった今日、子どもを私物化する傾向が強っています。
つくった子どもへの強い思い入れに発した親の「よかれ」は、往々にしての親の価値観や期待の押し付けになりがちです。
親たちは子どもに「よかれ」と思い、経済も心身のエネルギーもできるだけのことを子どもに注いでいる、それは親ならではの「愛情」の発露にはちがいないでしょう。

しかし、この「よかれ」は、その子どもにとって本当に「よい」ことなのでしょうか?

ここでは、子どもの望みや能力、個性などを考慮するよりも、親の期待が先行しがちです。「先回り育児」ともいわれます。
親の過剰な期待は往々にして子どもをつぶします。子ども数の減少にもかかわらず、子ども服やおもちゃ、さらに各種の早期教育など子ども産業は大盛況です。
こうした教育の市場化は、子どもが求め選んでのことではなく、「よかれ」と親の意向や好み、教育熱心の価値観に迎合してのものです。

そこでは、発達の主人公である子どもは置いてきぼりになりがちです。はたしてそれは幸せなことなのでしょうか?また、最近では、出生前診断の問題も話題になっています。「欲しい子ども」だけを選択していいのかという「命の選択」についての問題です。
ここには、遺伝子レベルで「欲しい子ども」を選択したい、そうでなければいらない(=中絶を選ぶ)という親のエゴが見え隠れします。

それもこれも科学・医療技術の進歩によって、子どもが「授かる」ものから「つくる」へと変わってきた時代に生きていることを実感させられる問題です。

【参考文献】
柏木恵子 2001 子どもという価値―少子化時代の助成の心理 中公新書
内田春菊 1994~2016 私たちは繁殖している(1)~(15) ぶんか社コミックス