「『生存戦略』としての子育て【1】―とにかく楽なフィリピンの子育て vs とにかく大変な日本の子育て」でみたとおり、フィリピンでは子育てのハードルが低いので、女性たちは大きな迷いなく子どもを産みます。

迷わないのは、カトリック教国ゆえ避妊・中絶が法的に禁止されていることも影響しています。「迷えない」のですから、しかし、禁止はあくまで「建前」、抜け道はいくらでもあるみたいです。

注目したいのは、フィリピンと日本の子育てで大きく違うのは、子育てのハードルが高い低い、母親の肉体的・心理的な負担が軽い重い、の違いだけではないことです。
フィリピンに住んで初めて気づきましたが、もっと重要な違いがありました!

見返りの大きいフィリピン、見返りの小さい日本

その違いとは、日本の子育ては、「大変なのに見返りが小さい」(=肉体的・心理的・経済的負担が大きい上に見返りが小さい)、一方、フィリピンは、「楽なのに見返りが大きい」(=肉体的・心理的・経済的負担が小さい上に見返りが大きい)という事実です。


「見返り」と一言で言ってもいろいろあります。扶養・介護してもらうなどの実用的経済的メリットをもたらしてくれるのもそうですし、心の支えになる、いざというとき相談にのってもらえるなどのようにより心理的精神的メリットに重点がおかれたものもそうです。

前者がフィリピン人の親の見返り、後者の日本人の親の見返りといえるでしょう。

フィリピン人は、親孝行で家族思いです。貧困層に限らず、自分の給料のほとんどを家族に渡します。海外に働きに行っても、自分のためには生活に必要なわずかばかりのお金を残し、あとはほとんど送金します。

私などはつい、自分が働いて稼いだお金なんだから、自分のために使ったり貯めたりすればいいのにと思ってしまいますが、フィリピン人はそんなふうには思わないようです。自分が稼いだお金を親兄弟に渡すのは、当たり前すぎて疑問に思ったことなど一度もないといった風です。

また、年金制度や介護保険などの社会保障制度が十分整備されていないフィリピンでは、年老いた扶養・介護も子どもたちの仕事・義務です。私どもの英語学校の教師たち(教育レベルが高く、考え方もリベラル!)にも念のため聞いてみました。「年取ったら、子どもに養ってもらうの?」。
答えは「Why not(もちろん)?!」でした。

親と子の関係は資源の循環・還流

ところで、ライフサイクルでみると親子関係の変化は資源(心身のエネルギーや経済など)の流れの変化としてとらえることができます。子育て期は、親のもつ資源が子に投入されます。やがて親の高齢化が進むにつれて資源の流れは逆転し、子による親の扶養という形で、今度は子のもつ資源が親に向けられます。

フィリピンに限らず、これまで多くの国・地域で、人類は親子間で資源を循環・還流させることによって人生末期も安心して老後を迎えられる仕組みを作り上げてきました。世代を超えて繁殖・繁栄するための人類の「生存戦略」と言えるでしょう。

この先はわかりませんが、フィリピンは今のところ、この仕組みがうまく機能しているようです。戦前の日本も同様でした。家制度のもと、長男に老親介護の責任が負わされていました。そのためか長男は他のきょうだいに比べて親に大切育てられたともいいます。

フィリピンが当時の日本と違うのは、特に長男と決められているわけではない点です。扶養・世話は「できる子」がやればいいと考えるのがフィリピン流。これにより、親の老後はさらに安泰となります。

子沢山は「できる子」が産まれる確率を高めるため?

「できる子」に関連して、フィリピンあるあるの小ネタを一つ、紹介します。

フィリピンの家族は、概して子沢山です。特に貧困層では、その傾向が強く、子どもが十人なんというのも珍しくありません。「子ども育てるにはお金かかるのに、なんで?」の質問に、あるフィリピン人がこんなふうに教えてくれました。

「たくさん産んでおけば、その中には一人くらい頭のいい子がいるかもしれない。一人くらい器量のいい子がいるかもしれない。将来はその子が稼ぎ頭になって年老いた親やきょうだいも養ってくれるだろうと期待するから」というもの。

冗談半分の小話なのですが、本気かもと思えるほどリアリティがある話だったので妙に印象に残っています。ちなみに、フィリピンでは稼ぎ頭になるのは女の子が多いようです(実際、概して、女性の方がしっかりしていて頑張り屋)。
小さい頃から「結婚するなら外国人(全員金持ちと思われています)」と言われて育つ女の子も少なくありません。

昨年、私たちの家の隣に新しい立派な家が建ちました。オーナー夫婦はお金持ちそうな初老のカナダ人男性と若いフィリピン人女性です。リビング、キッチンのほかにベッドルームが5つもある豪邸です。建築中、二人で住むのにこんなに大きな家が要るのかしらと思っていましたが、完成したとたんにその理由がわかりました。若奥様のご両親、ごきょうだい、姪っ子や甥っ子まで引っ越してきました(笑)。

このケースなどは、フィリピン流「生存戦略」の真骨頂、フィリピンの子育ては、“楽なのに見返りが大きい”の好例といえるでしょう。見返りをゲットできるのが親だけでなく、きょうだい、親戚にまで及ぶのもフィリピン流。面倒をみる方(この例でいえばカナダ人初老の男性)からすれば「家族もろとも」で大変ですが、みられる方は盤石のセイフティネットです。

フィリピンでは、このように子育てが楽なのに経済的にお得です。身も蓋もないような話ですが、このお得感こそが、フィリピン女性が大きな迷いなく子どもを産む理由の一つになっていると思います。

フィリピンでは、子どもの価値はもっぱら「実用的経済的価値」

ところで、「『生存戦略』」としての子育て【1】:とにかく大変な日本の子育て vs とにかく楽なフィリピンの子育て」で述べたとおり、「生存戦略」とは、人はある行動を自分にとってプラスになるか、マイナスになるかを比較考量して、よりよく生きられる、より幸せに生きられる方を選択することです。

子産み子育ての場合、自分にとってプラスになるかマイナスになるかを比較する上で判断材料となるのは何でしょうか。
子どもが自分にとってどのような意味・価値をもつか、自分に何をもたらしてくれるかが重要になるでしょう。

そこで、次に、親にとっての子どもの価値についてみてみたいと思います。発達心理学者の柏木恵子氏は子どものもつ価値という問題に注目し、『子どもという価値』(中央公論)のなかで、興味深いデータを紹介しています。

世界銀行が世界24ケ国の人々を対象に「あなたにとって子どもはどのような満足を与えてくれますか」と質問したデータです(世界銀行、1984)。
図1「あなたにとって子どもはどのような満足を与えてくれますか?」
途上国といわれる国々を中心に、子どもに親が経済的・実用的満足を得ている国々は決して少なくありません。私たち日本人は、子どもからお金や労働力をなどは想像もつきませんが、実際、フィリピンは「精神的な満足」よりも「経済的・実用的な満足」の方が高い国となっています(今後、経済発展に伴って逆転する可能性は十分ありますが)。

日本では、子どもの価値はもっぱら「心理的精神的価値」

では、日本人は子どもにどのような満足を求めているのでしょうか。

フィリピンのように経済的メリットは期待できません。それどころか、親の教育責任が大きいので(日本の公的子育て教育支援費は先進国中最低レベル)経済的にはマイナスの存在。幼稚園から大学まですべて公立に通っても1000万円、私立に通わせたら2000万円を超える出費。ちなみに、フィリピンでは公立なら幼稚園から大学まで無償です。

にもかかわらず、子どもに老後の扶養・世話は期待しない・できない状況が加速し、老後の経済的リターンもありません。

では、現代の日本人は、子育てに何を期待しているのでしょうか。
柏木氏の研究によると、子どもの存在がもたらす明るさ、愛らしさ、子どもを育てる楽しみや生きがいなどの精神的・心理的価値です。もはや子どもから経済的資源の還流(経済的リターン)は期待できなくなり、親にとっての子どもの価値はもっぱら精神的・心理的なものとなったわけです。
改めて上図1を見ると、子どもに「精神的満足」を求めている国々は、ほとんどすべて先進国といわれる国々です。子どもが経済的メリットにならない(むしろ、経済的にはデメリットになる)国では、子どもの数は必然的に少なくなります(少子化が加速)。そして、「少なく産んでよく育てる」戦略をとることになります。

しかし、ここで問題が起こります。この戦略は「子育てに失敗は許されない」プレッシャーに直結。特に、「親の子育てが子どもの人生を決める」的な言説に満ち満ちている日本では「親の責任」が肩にずっしり。でも子どもって自分が育ちたいようにしか育ちません。「親の努力はほとんど無駄」(米国の心理学者???ハリス)になります(笑)。

日本では子どもが成人後も資源を投入し続けなければいけないケースも

そんなことに薄々気づき始めるのは子育てが終わりに近づいた頃でしょうか。

ところで「子育ての終わり」っていつ頃でしょうか。子どもが成人した時期でしょうか。就職し経済的にも自立してくれた。「やれやれこれで一安心」「子育ては大変だったけどいい経験をさせてもらった」、「あとは子どもたちに迷惑をかけないよう」自分の生活・老後を考えようということなるのではないでしょうか。

しかし、最近、ここで一安心とならない事態・事件が報道されているのが気になります。「中高年ひきこもり」問題です。内閣府が2018年12月に実施した調査を基に推計したところ、40~64歳で引きこもり状態にある人が全国に61万人いるという結果がでています(実際には、もっと多いと言われていますが)。

引きこもり状態にある人とその生活を支える親が、ともに高齢化し、生活が行き詰まることは、それぞれの年齢から「8050問題」と呼ばれています。

これらのケースの中でも特に悲惨だったのが、2019年6月、農林水産省の元事務次官(76)が、長男(44)歳を殺害した事件です。この父親は経済的支援のみならず、就職先を探したり一緒にコミケに行ったり、はてはゴミ出しをしたり精いっぱい寄り添い面倒をみてきたといいます。それだけに12月の懲役6年の実刑判決には多くの同情の声が寄せられました。

「親の責任」の重さを象徴する悲しい事件でした。子どもが将来の安心・保険ではなく、将来(老後)の心配の種・リスクとさえなる国になってしまったかのようです。

ちなみにドイツでは、「引きこもり」はいないそうです。理由は、親たちが子どもを家から追い出すから。出ていかない場合は、警察の力を借りてでも追い出すそうです。こんな話を聞くと、40歳を超えた子どもの面倒を見続けたり、いつまでも「親の責任」が云々される日本って一体どうなっちゃっているのかと考えさせられます。

日本で子どもが減っているのも私たちの「生存戦略」?!

少し脱線しましたが、フィリピンでは子どもが増え続け、日本では子どもが減り続けている一因に、両国の親たちのしたたかな「生存戦略」が見え隠れしました。

産めば産むほど安楽な老後が約束される可能性が高い社会、フィリピン。逆に、成人した子どもにまで「親の責任」を感じ続け(他人・世間からは「親の責任」を云々され)、いつまでも子どもが心配の種、リスクとさえなりうる社会、日本。

ならば、あえてリスクはとらないでおこうかと若い人たちが考えるのも、一個人の「生存戦略」としてはアリなのかなと思ってしまいます。とても悲しいことですが・・・