人生初期はその後の他の時期より重要?!

子育てに“手遅れ”ってあるのでしょうか? 人生初期によくない養育を受けると一生取返しがつかないのでしょうか? この記事ではこの疑問について考えてみたいと思います。 「初期経験」という言葉を聞いたことはありますか? 文字通り、人生初期における経験という意味ですは、心理学では、「人の一生においてより早い時期に出会う経験がなにより重要、その後の発達に大きな影響を与える」という意味で用いられます。 さらに、「初期経験」を重視する立場では、ごく幼い時期に得る経験は後の時期においては取り返すことができないという「臨界期」の考えを含んでいます。 親にとっては聞き捨てならない説です。「こんな育て方で大丈夫かしら?」「手遅れにならないかしら?」と焦ってしまいますね。果たして、この説は正しいのでしょうか?

「刻印づけ」から来ている「臨界期」という考え方

まず、この説がどういう経緯で唱えられるようになったのか見てみましょう。 実は、この「臨界期」という考えは、「刻印づけ」をヒントにしています。 比較行動学者のローリンツはカモの飼育をしているとき、カモのひなたちが自分を母鳥と間違えたのか後をついてまわることに気づきました。皆さんもテレビなどでアヒルが飼育員の後をずっとついてくる姿を見たことはありませんか?
これは飼育員がお母さんだと(刻印づけ)されてしまったために起こっている行動です。 動くものなら何でも、たとえば段ボールで作ったニセ母鳥であっても「刻印づけ」されてしまうそうです。そして、その後いくら本当の母鳥を見せてもこの習性は直らないとのこと。 しかし興味深いことに、「刻印づけ」は、孵化後の限定された時期(孵化後24時間以内)にかぎって形成され、その限定された時期(臨界期)を過ぎてからではこうした行動は形成されません。

トリの「刻印づけ」は人間にも当てはまるのか?

このように「刻印づけ」という現象は、ローレンツによって発見され、動物学、生物学、心理学、小児医学など学問の世界に大きな影響を与えます。こうした流れの中で、人間の「愛着」にも同様のメカニズムが作用しているのではないかと考えられるようになりました。 果たして、トリの「刻印づけ」は赤ちゃんが身近な人に示す「愛着」にも当てはまるのでしょうか? 初期のごく限られ時期しか形成されず、後で修正不可能なのでしょうか?

人生初期に過酷な環境に置かれた子どもたちのケース

この問題を考える上で、幼い時期に親に遺棄・放置された子どもたちの事例が重要な示唆を与えてくれます。
こうした事例で世界的に有名なのは、「狼に育てられた子ども」や「アベロンの野生児」が有名ですが、ここでは日本の例を取り上げたいと思います。

ある姉弟の養育放棄のケース(「F姉・G弟」)です。
F姉は6歳、G弟は5歳になるまで、きょうだいによる関りこそあったものの、親による養育経験はほとんど受けておらず、発見されるまでの1年9カ月間、戸外の小屋に放置されているという状態にありました。近所の人の通報で、1972年9月に保護されます。 救出された当時の2人の状態は、収容された乳児院において、発達の遅れた1歳すぎの子どもと識別がつかない程であったとのこと。

ちなみに、姉弟ともつかまり立ちでの歩行はできず、発話は姉クック―(靴)など3語程度、弟はゼロであり、衣服の着脱など生活習慣は皆無であったとのことです。

どのような人間へと成長したのでしょうか?

さて、劣悪な「初期経験」を持つこの姉弟はその後どのような人間へと成長したのでしょうか?
人生初期の過酷な環境は、彼らの成長にどのような影響を与えたのでしょうか?

発達心理学者の藤永保らによって彼らの青年期までの16年間の成長・発達の経過記録が残されています(※注1)。
その記録によると、救出後、この姉弟にはさまざまな環境改善や補償教育が乳児院・養護施設・学校の教職員の連携のなか施されていきました。 その結果、約16年間の経過においてみる限りでは、二人の初期経験が発達上に支障をもたらしていることは見当たらないとのこと。
それどころか現在、彼らはそれぞれに「なりたい自分」や「やりたい仕事」を目標に努力を続けているとまで報告されていました。

筆者は、ここまで読んだとき胸が熱くなりました。
一番重要な時期と言われてきた幼少期に親からの愛情も世話も全く受けず、まるで家畜のような扱いを受けていた二人が、それを乗り越えて、向上心をもった素敵な青年へと成長した事実に対してです。

どうして可能になったのか?

どうしてそんなことが可能になったのでしょうか?
それには2つの契機がありました。


1つは、あたたかい療育です。
具体的には献身的で相性のよい保育士と出会えたことでした。
子どもたちは強い愛着をその保育士に示し、これを契機に言語や社会性をはじめとする心身両面にわたる飛躍的な成長を遂げることができました。


もう1つは、青年期の自己形成です。
思春期を迎えた彼らは、それぞれに「自分はこういう人間になりたい」「自分に欠けている点を補いたい」と目標を持つようになり、理想の自分を目指して努力するようになります。
人は自分自身を育てる力を持っているのですね。 「あたたかい養育」を受けながら「理想の私」に向かって努力する彼らの姿。
その姿に、人間の無限の可塑性・成長可能性を感じ、感動を禁じ得ません。

しかしながら、ネガティブな影響も?!

しかしながら、少し残念な事実も報告されています。

感覚・運動、身体、言語、認知、情緒・社会性など発達領域を分けて、年齢にそった経過をたどってみると、回復が著しい領域がみられる反面、言語や認知領域においては、アンバランスな発達がみられたとのことです。 特に、言語領域では、日常のコミュニケーションにおいてはなんの支障も起こさないものの、状況的文脈とは切り離された言語能力において難点が後々まで残っていました。<br/>たとえば、目の前にある「本・書籍」は理解できても、「良書は心の糧」といった抽象的・概念的な文になると理解に困難を感じるといった状態でした。

このことから言語発達にあっては、臨界期というよりはむしろ「敏感期」と考えられる時期が存在していて、二人の場合には、その時期に言語環境が貧困であったことが後々までも影響を残したと考えられます。

ですから、幼少期に周囲の大人たちからあたたかい養育を受けることの重要性は強調してもし過ぎることはありません。
しかし、このケースようにヒドイ環境であっても、人はそれを乗り越え、前向きに生きることができるのです。

ここが、高度な脳をもつヒトがトリとは決定的に異なる点です。

筆者は、発達初期の親の養育や親子関係を過剰に問題視すべきではないと考えています。

人はそれほど弱く、受け身な存在ではない。生涯にわたって柔軟でたくましく成長を続ける存在だからです。 注1)藤永保 「子育て・子育ち」