家族を愛せるのは女性だけでしょうか。
家事育児をつつながく行うのが「愛情」でしょうか。
この記事ではこんな問題を考えてみたいと思います。
「家事」と「愛情」はどう結びつくのか
私たちの家族である「近代家族」では、家事育児を行うことは「愛情表現」であり、それは女性に適しているという考え方(思い込み)に支えられています。
つまり、「家族」は愛情を基盤とするものであり、その愛情の源泉は妻であり母である女性の責任となりました。
「主婦」研究の草分け、社会学者のアン・オークレーは『主婦の誕生』(1974)の中で、こうした「女性=情緒的存在=愛情表現としての家事労働」という図式は19世紀に定着したと論じています。
これは女性たち自身の幸福感とも合致していたため、一般に浸透します。
「愛」「愛情」という言葉に弱い女性たち
そのためか、女性は、「愛」あるいは「愛情」という言葉にめっぽう弱い傾向があります。
いざ結婚となると、「しあわせ家族」を思い描き、自分はその真中でさんさんと輝く太陽、家族みんなを明るく照らし、温かく包み込むお日様たらんと欲します。
いざ子どもが産まれると、子どもの育ちは母親次第、逆に言えば、「さもなくば…」と脅されてきたものですから、子どものことになると俄然はりきるのが女性です。
妻の愛、母の愛。
もう「愛」という言葉を聞いただけで、否定したり疑ったりしてはいけないような、そんな気がしてきてしまうのです。
でも、だからこそ、家事論で言われる「愛」が、一体自分のなかのどういう感情・情緒を指すのか、一度、胸にすっと手をあてて、よく考えてみる必要があるようにも思えます。
家事=愛情表現と考えている女性が大半
少し古いデータになりますが、山田昌弘が、1991年に東京都在住の夫と妻345名(夫166、妻179)を対象に行った調査によれば、家事についてのイメージを「愛情表現」と捉えている割合は妻62.8%、夫53.5%でした。
一方、「義務」と捉えている割合は、妻37.1%、夫46.6%でした。
ここで【筆者の疑問 その1】
家事は「愛情表現」と考えている過半数を上回る妻たちは、トイレそうじをしながら家族への愛を感じているのでしょうか。
または、家族への愛を示すためには、トイレはきれいにしておかなければと思っているのでしょうか。
あるいは、そういう個々の家事は義務の仕事としてやるけれど、家事をトータルにとらえたとき「愛情表現」と意味づけているということなのでしょうか。
【筆者の疑問 その2】
一方、夫の側はどうなのでしょうか。家事は「愛情表現」と回答している妻の夫は、きれいにみがかれた便座を眺めて、妻の愛を感じるのでしょうか。
それとも、妻は家族を愛しているから、妻が家事をするのは当然と思っているのでしょうか。
一体全体、「家事」と「愛情」とが、する人のなかで、してもらう人のなかで、どのように結びついているのか、疑問が膨らみます。
家庭の外でも「女性=情緒的存在」とされる問題
ところで、「女性=情緒的存在」とされることことの弊害は、男性を育児家事から疎外するだけでなく、女性の職業生活をとても窮屈なものにし、職業人としての成長を阻みます。
家庭の枠を超えて、社会的にも癒しや安らぎを与える役割(潤滑油的役割)が女性に求められることの問題を社会学者の水無田気流さんはこのように述べています。
私見では、男性が個人的に女性に癒しや甘えを求めること自体は問題ではない。
そのような癒しこそが女性の本質的特性とされ、その結果女性個々人の個性が剥奪され、公的・私的領域を問わず男性と女性が共存する場で、暗黙の了解として期待されてしまうことが問題なのです。
女性が上司に意見したりすると、「かわいくない」「女のくせに」との陰口が聞こえてきそうで、言いたいことも言えなくなってしまいます。
面接で、「女らしさ」や「容姿」が重視されているような会社は要注意です。
「感情労働」という捉え方
そんな職場では、女性は「愛情の責任」から逃れられなくなります。
常に、相手の感情を良好に保つ「スキル」を身に着け、つねに自らの感情をコントロールしていくことが要求されることになります。
この主として女性に課せられがちな労働を、社会学者のアーリー・ラッセル・ホックシールドは、「感情労働」と呼びました。
飛行機に搭乗したときの客室乗務員さんの満面の笑顔を思い浮かべてみてください。
鏡を前にずいぶん練習したことでしょう。
彼・彼女らが「労働」をしていることは容易に納得されます。
「感情労働」は、実に多くの女性が職場でも家庭でも期待される労働であり、しかも通常労働とみなされない労働です。
「家事」と「愛情」と「女性」
あなたが女性であるなら、「家事」と「愛情」と「女性であるこの私」。
はたして、これら3つが自分のなかで三位一体となっているか否か、胸に手をあてて問うてみてください。
もっとも、人生には「物語」が必要です。家の外で「7人の敵と戦う」のが男のロマンなら、対する女のロマンは、さしずめ、家の内で「愛に生きる」物語でしょうか。
家族への愛にひたむき生きる一生も素敵な「物語」です。
しかし、制度としての結婚は、必ずしも“しあわせ一直線ロード”であるとは限りません。「愛(だけ)に生きる」物語が必ずしもハッピーエンドで終わるとは限りません。
ある日突然もらえなくなるかもしれない夫の「給料」(雇用の不安定化は現在、日本の深刻な問題です)。
ある日言い出されるかもしれない夫との「離婚」(現在、日本では3組に1組が離婚しています)。
人生80年とも100年とも言われる現在。
家族への愛(だけ)に生きるには人生は少し長くなり過ぎたかもしれません。
【参考文献】
Ø 山田昌弘 1994 近代家族のゆくえ 新曜社
Ø アン・オークレー 1986 主婦の誕生 三省堂
Ø 水無田気流 時間のない女、居場所のない男